2010年2月22日月曜日

ジャック・ランシエール 『感性的なもののパルタージュ—美学と政治』

今日、「政治」はどこにあるのか。労働、芸術、そして言葉は誰のものなのか。ポストモダンの喪の後で、体制に絡めとられた民衆の間で、分け前なき者たちの分け前はいかに肯定されるのか。政治的主体化と平等をめぐる、現代の最も根源的な問いを、美的=感性論的な「分割=共有」の思考を通じて解放する、ランシエール哲学の核心。日本語版補遺・訳者による充実の著者インタビュー付。

難しい。けれども、面白い。ランシエールの著作として、インスクリプトから『不和』と『民主主義への憎悪』が訳出されていましたが、これからも続々と刊行されていきそうです。平凡社からも『イメージの運命』が3月に。法政大学出版局からは、他にも『無知なる教師』(1987年)と『解放された観客』(2008年)が刊行予定とのこと。インスクリプトからも複数刊行予定ありとのことです。

面白い。けれども、難しい。本書は3つの部分からなっていて、序盤が『感性的なもののパルタージュ』本文。次いで、訳者によるランシエールへのインタビュー、最後にそのインタビューの「余白」に書き込まれた訳者解題。特にこのインタビューと訳者による解説がとてもありがたかった。「ランシエール入門」的な役割を果たしてくれる、すぐれて有用な補遺です。

はっきり始めに書いておくけれども、僕はこの本の内容をほとんど理解できていない。けれども、幾つか面白いなぁと思ったところを取り出すことくらいはできるかもしれないし、それが本書の内容を掴む手がかりになるかもしれない。以降、ちょっと試みてみよう。(読み違えの可能性大いにありです。)

まず、ランシエールの思考法モデルについて訳者は、従来の幾つかの思考モデルとの違いを明らかにしている。弁証法モデルにおいては、対抗者の最終的な止揚が目指され、それは対抗者の事実上の消滅を意味する。マルクス主義における国家の「消滅」を想起すればよいだろう。次いで対立的モデルがある。これは対抗者と同じ法・論理を共有した上でそれに対立する。そこでは対抗者の消滅ではなく、対立・競争による分け前の争いが目指される。これは議会主義的な対立を想起すればよいと訳者は述べる。また、このネガティヴな派生態としてテロリズムやメシアニズムが存在する。
それらに対し、ランシエールの思考法は「減法的モデル」とでも呼ぶべきものである。

もはや、対抗者の消去が問題なのでも、対抗者と同じ現実の論理を共有した上でそれに対立することが問題なのでもない。政治的行為および政治的主体は、対抗者の支配的論理に対する例外として、すなわちその論理から抜け去るものとして構築されなければならない。…ランシエールは次のようにいう。「ポリスの本質は、空虚ないし付加の不在によって特徴づけられた感性的なものの分割=共有であるということに存する。そこでは、社会はそれぞれ特別な行為=製作様式へと捧げられた諸々のグループ、これらの従事活動が行使される諸々の場、そしてこれらの従事活動と場に対応した諸々の存在様態から成っている。機能、場、存在様態のこのような適合においては、空虚はいかなる場にもありはしない。「存在しない」もののこのような排除こそが、国家的実践の核心にあるポリス的原則である」(140ページ)

どういうことか。詳しく見てみよう。
まず、感性的なもののパルタージュ(分割=共有)とは何か?それは「感性的な諸明証性がなす体系」のことであり、「誰が共同のものの分け前に与ることができるのかを、その者が行っていること、そしてこの活動が行使される時間と空間に応じて目に見えるようにする」ことだという。労働者はその身体を労働に使用させるだけの存在である。そして彼らの夜はその労働力を再生産させる時間に過ぎない(しかし実際のところ彼らは夜に何をしていたのだろう?)
あるいは、奴隷の声は、言葉ではなく、動物たちの叫び声に過ぎない。移民労働者の声も、マジョリティにとっては言葉ではなく、雑音に過ぎない。このようにどれが聞くべき人間の言葉で、どれが聞くに値しない騒音なのかを決定する形式のことを彼は「感性的なもののパルタージュ」と名付ける。であるならば、政治とは何よりも美学=感性論における問題であり、あるいはこうした既存の感性的なものをめぐる構造への挑戦こそが「政治」である。既存のポリス的な体制、そこでははすべてがあるべき場所に収まっていて、空虚も存在しない。したがって、ポリスの論理を宙づりにすることができるのは、そうした空虚を出現させるという出来事によってである。
ポリス的状況、労働者は何も言わずに労働し、妻はおとなしく家事労働をするような体制。そのなかに、それまでから考えれば、そこにいるはずのないものが存在し、声を上げ始める、その事をランシエールは「政治」と呼ぶ。ハーバーマスのいうような「理性的な対話」は、「政治」ではなく、既存のポリス的状況の再生産に過ぎない。「公共圏」に属しているのは誰か?「公共圏」には存在しない(=締め出された、又は存在する資格がないとされた)はずの空虚が、そこに顔を出すこと、それが「政治」である。
したがって、そうした「政治」はまれであるし、「間違い」でさえある。この「間違い」であるというのは、それまでの状態、あるいは「自然な状態」から逸れた、という意味である。こうした通常の用途=行き先から逸脱しうる存在(この言い方は問題があるのか?人間は潜勢的にこうした逸脱をしうる存在なのか。あるいはそうした逸脱は純粋な「出来事」であるのか。)である人間は、まずもって「文学的動物」なのだ、とランシエールは強調する。インタビューの次の部分は決定的に重要な発言だろう。政治が人間の存在論的特性を前提にするのか(先の括弧の問いとほぼ同じ疑問か?)、という問いに対してこう回答する。(少し長いけれど…)

私は、政治的主体化を、人間が言語を所有する存在であるということに基づけているのではなく、この所有そのものが、論争に関わるような何かであるということに基づけています。というのも、政治があるとすれば、それは単に、アリストテレスが言うように、人間がロゴスを所有しており、ロゴスが動物的な声から区別されるからではなく、ロゴスに属しているものと声に属しているものに関して、常に論争があるからなのです。…同様に、私が「人間は文学的動物である」と言うのは、それが言わばその通常の用途=行く先から引き抜かれた動物であるということなのですが、それも単に言語活動によってではなく、ある種のタイプの言葉、すなわち主なしに流通する言葉、誰でも自分のものにすることができる言葉によってということなのです。文学的動物とは、言語活動がもはやある条件やある用途=宛て先に適合してはいないような言語体制によって捉えられた動物なのです。政治的動物は、動物の声と人間的な声との分割を問いに付し直すべく介入する動物なのです。というのも、ポリスの論理はまさしく、正当なものと不当なものに関して議論を行うロゴスの特権を、知識のある者にのみ割り当て、それ以外の人類を、満足、不満足、不安、苦痛等々を表現する声の領域に制限するものだからです。そして政治が開始されるのはまさしく、声によって騒音を発するだけと見なされていた者たちが、言葉を語る主体として自己を表明するときなのです。文学的動物に関しても事情は同じです。それは、自分の置かれている状況から切り離された言葉によって捉えられた動物です。このような言葉は、…それが誰に向けられているかわからない言葉、それがいかなる経験を表現しているのかわからない言葉なのです。文学の言葉とは、凝縮された経験、あるいは凝縮された生の形式のようなものであり、誰に属しているのか、そして誰に向けられているのかといったことがわからないような呼びかけです。(87−88ページ)

文学的動物はエクリチュールによって捕らえられることで、自らの自然な用途=宛て先から自身を逸脱させることのできる存在である。逆に言えばエクリチュールは従来の感性的なものの布置を撹乱させる。つまり、「この言葉によって捉えられた者たち、そしてまた、自分たちに向けられたのではないこの言葉を、決して自らの固有のものとすることのできないまま奪取する者たちは既存の分割=共有を再編成する発話主体の集団として、正当性=正統性に欠いた政治的集団を形成することになる。」(150-151ページ) 

歴史の問題、証言の問題、フィクションの問題についてもランシエールは言及する。
これもとても重要だけれども、これ以上引用に近い記述を続けてもしょうがないので止めにする。
インタビューや「解説にかえて」で語られていること以上のことがここで述べられるとも思えないので。

とはいいつつも1点だけ。この「歴史」を巡るランシエールの指摘はとても重要。実証主義的歴史学、倫理的言説への還元、否定論的修正主義への批判はそれぞれ、とても示唆的。とくに歴史の「倫理的奪取」が証言の証言不可能性へと、つまり「出来事」に対する絶対的な隔たりを措定し、思考の不可能性へと、つまり、否定論者と同じくその出来事を存在しないものとして扱うことへと帰結するという指摘。そしてそれらに抗して、ユダヤ人虐殺を「政治としての特異性において」(つまり「ホロコースト」としてではなく)思考する必要性を提起する。
さらにフィクションの問題。ランシエールの「フィクション」概念の面白さと、思考の賭け金は、フィクションを抹消することではなく、支配的な(コンセンサス的)フィクションに、他の(ディセンサス的)フィクションを対立させることである、という点だけ指摘しておく。

とても根源的かつ魅力的な思考。2010年おすすめ本の一つ。

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