2010年2月7日日曜日

フランソワ・ドス 『ドゥルーズとガタリ 交差的評伝』

はじめてのドゥルーズ、ガタリの伝記。膨大な証言をもとに2人の軌跡を交差させながら、時代と思想の流れをたどるという、かつてない試み。60~90年代の思想/運動の歴史としてもまたとない書。
ドゥルーズとガタリの思想はいかに形成され、ドゥルーズ+ガタリの思想となったのか―これを読まずしてドゥルーズ/ガタリは語れない。厖大な証言と未公開資料を駆使して創造の核心に迫る。

ようやく読了。9月くらいから読み始めたわけですから、かれこれ半年近くこの本をつきあったことになります。もっとも何度か中断をはさんだわけですが。
ドゥルーズの思想、ガタリの思想、ドゥルーズ+ガタリの思想、これらはいかにして形成されたのか。もっといえば、ある哲学者の思想、これはいかにして形成されるのか。それは、ただその思想家の著述を辿るだけでは掴むことができないし、社会的文脈、時代精神的なものにすべてを還元させることもできない。彼がいかにしてそのような思想に至ったか、それを動的に把握するにあたって、「評伝」がもつ意義はとても大きい。そもそもドゥルーズの思想、とかフーコーの思想といった時に、あたかもその思想は一貫した、あらかじめ完成されたものとして受け取られてしまう。それってなんだか後付け的だし、すごい静的な図式のような気がする。付言すれば、これはドゥルーズやフーコーに一貫したものがないということを意味する訳ではない。ただ、そうした謂いは、彼らの思想を動的に把握した上でなされなくてはならない。評伝はそのための一つのやり方になりうる。ただしそのなかで彼らを英雄視することは避けなければならないが。

ドゥルーズとガタリに関心をもつ人々にとって、この本がもつ意義は大きいのではないだろうか。膨大なインタビューと資料発掘の積み上げによって明らかにされるドゥルーズとガタリの生涯。そうした資料一つ一つがとても貴重なものだろうし、彼らの思想を探求する上で大きな役割を果たしうる。
…んだろうけれど、僕は、そんな人ではないので。とても素直に読んでいた。へー、ドゥルーズってこういう人だったんだ、とかガタリってさぞかし面白い奴だったんだろうなぁ、とか。こうやって二人の評伝が重なっていると、改めて対照的な二人だったんだなぁ、と。絶えず動き続けるガタリと、一つの場所に留まることを好んでいたドゥルーズ。ドゥルーズに焦点を置いた章では、その多くが彼の思想を噛み砕いて紹介することに重点が置かれる。だから単純に読み物として面白いのはガタリを扱った部分かもしれない。少なくとも朝日新聞の書評で柄谷行人はそう語っていた。しかし、時間をかけて読んでいくなかで、ガタリもドゥルーズも同じくらいアクティヴだったのかもしれない、と思うようになった。ガタリは行動する。様々な活動に加わり、団体を設立し、雑誌を創刊し、精神分析を行った。一方ドゥルーズはむしろ思想のレベルでアクティヴであり続けた。過去の思想家を掘り返し、蘇らせ、その背後に回って自分の子をはらませることを通して。また、文学、映画、音楽など幅広いジャンルへの横断を通して。そしてガタリとともに。

この二人の思想には強烈な共感を覚える。彼らが何を考えていたのかなんてほとんどわかっちゃいないけれど。ちょうど、國分さんと千葉雅也さんが訳した『アンチオイディプス草稿』が刊行されたことだし、読み続けていこうかな、と。

決して安い値段ではないし、重たいし、読んでいてうんざりするかもしれないけれど、これは面白いですよ。二人の評伝であると同時に、これは20世紀後半フランスの思想家たちの内実を明らかにしているから。場合によってはスキャンダラスでさえあるかもしれない。
特にバディウへの批判は痛烈。ともあれ、ぜひぜひ。

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