2010年2月18日木曜日

竹沢尚一郎 『社会とは何か—システムからプロセスへ』

「社会」という語は、どのような意味や役割を担わされてきたのか。十七世紀以降のヨーロッパで、それは初め、統治や富の増大を目的に国家が介入する空間として認識された。後に、貧困・暴力・不衛生など、「社会的な」問題が拡大し、それに対処するための対象となった。社会を複数の要素からなる複合的なものとしたのはスピノザである。人が他者とともにより良き生を築くための場という彼の構想に、社会の可能性を読む。

なんだかなぁ、という感じ。
タイトルと参考文献を見て期待して買ったけれども、肩すかし、でした。
本文よりも参考文献のほうが面白かったです。

1章では、ホッブズ、スピノザ、ルソーの「社会契約」論を取り上げ、国家の権威を合理化させるために想定された「社会」という観念について検討する。このあたりはとてもありきたりの話で、目新しい話はありません。スピノザを再発見したのはトニ・ネグリだといっていますが、これは誤解でしょうし、このスピノザの読みも(どれだけオリジナルなものかは知りませんが)どうなのかな、と。

2章では、いわゆる「市民社会」の形成過程を追っています。うーん、といった感じ。3章では、一方ではサン・シモンやプルードンなどの社会思想や社会主義を、他方ではコントからデュルケームに至る社会学の成立過程について論じています。前者はあまり知らなかったところなので、紹介してくれてありがとう、といった感じですが、文字通り「紹介」だけです。後者もしかり。

4章はフランスの移民「問題」、5章では水俣病を取り上げながら議論をする訳ですが、何の話をしたいのかはよくわからない。

…とまぁ色々扱っている訳ですが、このうちどの内容も、専門とする人々から見れば、なにいい加減なこと言っているの?ということになるんじゃないかと。

著者が「社会」をどのように考えているのか、は以下の引用に伺えます。

社会とは、すでに固定されたものとして存在するわけではなく、人びとの意思と行為によって変えることのできる、ある種の厚みをもった空間として考えられる。それをより良きものとしていくには、社会として何を実現していくかの最低限度の善の定義が共有されていることが必要であろう。もちろんその善は、時代とともに移り変わるであろうし、社会を構成する成員の討議を通じてたえず修正されるべきものである。そして、その成員が共通の善の定義に参加し、共同でその善の実現に向かっていると意識するとき、はじめてかれらのあいだに横のつながりが、社会的連帯が実現されるのではないか。(156ページ)


では社会を構成する成員とは誰なのか。彼のいう「社会」に外部はあるのか、ないのか。「厚みをもった空間」としての社会とは単一のものか、複数あるのか。ここでいう社会とは結局のところ国民国家なのではないか。社会とは「〜である」という話をしているのか、「〜であるべきだ」という話をしているのか。「最低限度の善」の追求が、ある特定の集団の排除や消去につながる危険性はないのか。討議から排除される人びと、聞き取ってもらえない人びとの存在はどうなるのか。そもそもここでいう「善」や「より良きもの」とは何だろうか。それは普遍的なものではないらしい、つまり時代とともに変わりうるものだから。
結局のところこれは、みんながお話しして、みんながいいなぁと思うことをやっていきましょう、そしたらみんな仲良しだよ、といっているだけではないか。
僕はあまりローティ、ロールズ、ハーバーマスなどの議論を知らないので、よくわかりませんでした。だけれども、これって中学や高校の社会の授業と変わらないような…。とりあえず僕には、こうした発想は必ず「排除」を含みうるだろうなぁということはよく分かります。
何だろう、彼は「社会的なもの」の話をしているのか「政治的なもの」の話をしているのか…。

また、その少し後では社会についてこんなことを言っています。

しかし、はたして社会は、それを構成するすべての部分が機能的に連関しあう等質的なシステムであるのか。むしろ社会とは、多様な諸個人と多様な構成原理をもつ諸集団が、自分たちの生の環境をより良きものとすべくせめぎ合う場であり、そうした行為がおこなわれるひとつの競合的なプロセスであると考えるべきではないのか。(162ページ)


社会とは競合的なプロセスである。さっきの話と少し印象が違いますが、恐らく「討議」という概念の中に「せめぎ合い」や「競合」という要素が含まれているのでしょう。でも、なんだかこれってそれぞれの利害関心に基づく政治(コーポラティズム?)みたいな話な気もしますが。でも「せめぎ合い」とか「競合」の場や過程として社会があるのなら、マイノリティってやっぱそこから排除されるんじゃないの、とか思います。そう考えるとやっぱこの『社会とは何か』という問いにこの本はうまく答えているのか…。
上の引用はスピノザを意識しているみたいだけれど、これは彼がいわんとしたことと違うんじゃないかなぁ。

あとこの本に出てくる「コミュニティ」概念にも違和感が。デランティの『コミュニティ』を読んでコミュニティ概念がよく分からなくなった、ということでコミュニティを「生活の共同とたがいの身体への関心、そして深い情緒性に基づいた複合的な関係性」と捉える。
ブランショのいうような68年フランスの混乱状況で生じた友愛(デランティの中では「ポストモダン・コミュニティ」と名付けられていたもの)もmixiもfacebookもコミュニティじゃない。「生活の共同」とあるから実家から独立して一人暮らしをしている人は、そこから外れる訳で、つまりそうした形態も家族もコミュニティじゃない。「たがいの身体への関心」の意味は定かではないが、会社で他の人の身体に関心を持っていないし、「深い情緒性」に基づいている訳でもないから、会社もコミュニティじゃない。ってことは僕はどのコミュニティにも帰属していない…のか?
こんな矮小なコミュニティ定義に当てはまるコミュニティって何ですか?コミューンですか?こんなに狭い定義付けをすることって生産的なのだろうか?他方でデランティの重視していた帰属belongingの要素も含まれていない。これでは、今日私たちは複数のコミュニティに重層的に帰属しているのではなく、どのコミュニティにも属していない、ということすらあり得るのではないか。「もし社会が均質的なシステムであったとすれば、それはやがてその内側から活力を失い、たんなるのっぺらぼうの制度として硬直化していくだろう」というけれども、彼の定義する「コミュニティ」こそ硬直化し腐敗していきやすいんじゃないの、とか思ってしまいます。
5章の水俣病の話は面白いけれど、「社会とは何か」という問いからは外れるんじゃないでしょうか。いや、そんなことはない、と著者は言います。

水俣のケースは、私たちの社会の理解に対しても大きな示唆を与えているのではないか。…それ[社会]は内部に、コミュニティやアソシアシオン、公共圏、地域社会、組合、社会運動体など、しばしば社会のそれとは異なる原理や規範に立つ社会的編成を数多く含むものである。その多数性や複数性こそが、安定的に見える社会の内部に亀裂を生じさせ、その亀裂を通じて私たちを人間存在の基底や歴史の深層へと導いてくれるのではないか。(198ページ)


そんな沢山のものを含む社会ってでっかいなぁ。人間存在の基底や歴史の深層とか、何のことなのかよくわからないけれど。
ここまで書いてみて思うけれど、やっぱり著者にとって社会=国民国家なのではないか。いや、あちこちでそうではない、ということを言っている訳だけど。
あと、いきなり水俣病の話をする前に、西洋における、社会の発明やら発見やらを論じたのだから、日本という文脈における「社会」概念やら理解やらについて言及するべきだと思う。日本において「市民社会」はあったのか、とか。最後に気になるのは、「社会とは何か」という言葉は、普通「社会とはどのようなものであるか」、ということだけれど、ここでは「社会とはどのようなものであるべきか」ということを指している。あるいは、意図的かどうかは定かではないにせよ、その両者を混同している。

書いていて盛り上がってしまったせいで、意味不明なところがあるとは思いますが、そんな感じです。無知やら読解能力の不足のせいで、僕がわかっていないだけの話かもしれませんが。

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