2010年2月11日木曜日

行友太郎・東琢磨 『フードジョッキー—その理論と実践』

カセットコンロを ターンテーブルのごとくあやつり、 とめどなく料理を作り、 食らい、語り続け、楽しみ、片付け 、厚かましいまでに人々をもてなす、 歓待装置=フードジョッキー いま・ここ広島から登場!

これは革命的なマニフェストです。すばらしい。

この間会社の人と飲んでいたらなぜかグルメ本の話になり、食欲って性欲と何ら変わらんよね、って話から、じゃあ「グルメ本はエロ本だね」という当然の結論に至りました。確かに北大路魯山人の本なんかを読んでいると、この人絶対ヘンタイだよなぁ、と思います。団鬼六的な。まぁその話はこの本に全く関係ない訳ですが、「食」ってテーマはとても面白いなぁと改めて。
そういえば、食とポスト・コロニアリズムについてはウマ・ナラヤンの「文化を食べる」という論文が抜群に面白かったけれど、日本で研究している人っているのかな。

ともかく。
フードジョッキーとは何か。
それについて考察を深めるために、まず本書の冒頭に記されているマニフェスト(これはひょっとしたら後世第二の共産党宣言と呼ばれることになるかもしれない)を引用したい。

 既にこの世界には無数のフードジョッキーたちが存在している。そのうちの限られた数名の者は自らフードジョッキーを名のり、その任務を意識的に遂行している。しかし、大多数のフードジョッキーたちは自分自身がフードジョッキーであることに気付きもせずに、フードジョッキーとして料理を作りまくり振る舞いまくっている。そのようなフードジョッキーは潜在的フードジョッキーと呼ばれる。今、この瞬間にも、世界中の至る処でフードジョッキーは誕生し続けており、これを止める事は誰にもできない。何故なら、人間であり動物でありゾンビである私たちは、生き続ける限り食べる事を決して止めはしないからだ。
 このように、食欲さえあればどのような場所にもどのような時間にもフードジョッキーたちは自然発生するのだから、フードジョッキーである事を勝手に意識した限られた数名である私たちは、フードジョッキーの野放図な誕生と増殖に拍車をかけるべく、後は火に油を注いでやるだけだ。いや、火に食い物を届けてやるだけだ。いや、燃え盛る炎にレシピを放り投げてやるだけだ。フードジョッキーたちの世界的猛攻勢は、私たちの厚かましく際限を知らない食欲に呼応して、今後更にその激しさを増すであろう。食欲という最小にして最大の要求、この要求の全面的肯定、これが私たちフードジョッキーの賭け金である(pp.9)


というわけです。なるほど。私たちは皆、潜在的にはフードジョッキーなのですね。


不特定の人々が集い、ともに調理し、ともに食らい、ともに片付ける。「コレクティヴ・キッチン」に限りなく近い、あるいはそのものであろう。
これは第一に食事が単なる消費や、労働の再生産手段に位置づけられている現状への異議申し立てとして捉えられる。昔込み合った大学の食堂を見て、豚小屋を連想したことがあった。ガヤガヤうるさい学食はうんざりだが、込み合ってみんな黙って必死に食べ物に食らいついている様はそれより数倍異様だった。食事ってそういうものじゃなく、もっと楽しいものではないのか。
果たして食事とは労働のための再生産手段に過ぎないのか。これはあまりに唯物論的な見方だし、こうした見方に同意する人はそうはいないだろう。生きるために食べる、ということは考えられても、働くために食べるということなど考えられるだろうか。生きることと働くことを等号で結んではいけない。だって、働かずに生きることは不可能ではないけれど、生きずに働くことなどできない(ロボット?)だろうから。ついでに言えば、食事はおいしいに超したことはない(そして安いに超したことはない)。
それだけじゃない。FJは料理を作る側/食べる側との境界を掘り崩す。主人と客人、あるいは給仕(従業員)とお客様という境界を溶解させる。この境界は同時にジェンダー化させられていた、つまり女性(主婦)/男性(主人)というように。しかし、FJは共に作り、共に食らい、共に片付ける。FJはこうした食事における境界線への異議申し立てとしても理解できる。こうした混淆は、彼らの作る料理にもなぜか反映される。なんでも混ぜ合わせる、合いそうにないもの同士もとりあえずごったにしてみる。それぞれに特異性を持つ素材を集合させることによって、新たな味を創造させる。偶発的かつ創造的な試み、それはマルチチュード的ですらある。同時にこの過程で「私」的な所有物であった素材が互いに判別不可能なまでに混じり合い「共」へと移行を果たす。そう、こうした協動の場こそ、ネグリ=ハートが「コモン」と呼んだものではないか。そういえば彼らはCommon Wealthの序章で、キーワードとして「(政治的概念としての)愛」と「貧困」を掲げていた。「コレクティヴ・キッチン」が貧しい人々が食べ物を持ち寄ることから始まったのと同様、FJたちも「貧困の文化」を肯定する。愛と貧困のFJたち。共にご飯を食べよう。

本書は、幾つかの宣言と、いくつかのレシピ、対談と用語集からなっている。
ここで登場する料理は例えば次のようなものだ。
「明かしえぬ共同体」煮込み/マメに敵対性をあらわにしていく鍋・サラダ・揚げ物一式/存在者が存在から離脱する鍋……
しかも、みんなおいしそう。やってみたい。
そしてその後に続く対談が抜群に面白い。「アンデルセン」と「スターバックス」を目の敵にし、延々とうんこについて語り続けたかと思えば、イカ天を称揚し、イカの内臓に生命の神秘を見いだす。他方で、フェアトレードやヒロシマでのG8、グルメブームに鋭い批判を浴びせる。この批判は案外当を得ていて一読の価値あり。

これで1200円はお買い得。くだらな面白いですよ。

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