2010年2月26日金曜日

フランソワ・ダゴニェ 『世界を変えた、ちょっと難しい20の哲学』

自分を磨くための絶好の教科書! プラトン、アリストテレスから、ハイデガーやサルトルまで。知っておかなければならない<20の最も重要な知の遺産>を1冊に凝縮したエスプリあふれる哲学書。
著者は、若い世代にも支持されている現代フランスを代表する思想家であるが、本書でくり広げられる手法は、きわめてユニークである。今までの哲学入門書は、哲学者をタテに並べただけであったが、ダゴニェは先行する哲学に対して「異議」を申し立て、根底から新しい哲学の世界を開拓した哲学者だけを取り上げたのだ。
現実が不安な時代ほど、哲学への期待は高くなる。私たちは、「今」の新しい思想を考えるためにも、過去の重要な哲学をどう見るかという作業を行わなければならない。そのための格好の道具が本書である。

(あ、上の紹介文はあまり当てになりません。)
微妙、です。フランソワ・ダゴニェってどっかで聞いたことあるけど誰だっけ。
原題とは全く違うタイトルですね。『偉大な哲学者と彼らの思想』(フランス語は読めないのでニュアンスでの訳)、じゃPHP的にはアウトでしょうし。

PHPだからざっくりした入門書かと思ったんですけど、違いますね。ある程度素地がないと何言ってんだかわからないでしょう、これ。僕は素地がないので全く頭に入らなかったです。

やり方としては、哲学史(もちろん西洋哲学史のことですが)を、古代哲学、古典哲学、現代哲学の3つに分断する。そしてそれらの3つの区分間の対立、それぞれの区分の内部での哲学者の対立や乗り越えに焦点をあてて、議論をしています。
このやり方においおい、って思うことは必至ですが、おいおいって思っていると結論部分で、著者から猛烈な攻撃を食らいます。結構攻撃的な書き手ですね、この人。結論部分では予想されるであろう反駁を幾つか取り上げて、それに再批判を加えることに大部分を割いています。

古代哲学として取り上げるのは、プラトン、アリストテレス、ストア派、エピクロス派。このあたりはまぁまぁ面白かったんですが…。対立とか乗り越えとかを重視するあまり、それぞれの哲学者の思想をほとんど紹介していない。知ってれば、「うんうん」ってことになるのかもしれないけど、知らなきゃ何言ってるかよく分かりません。引用も多いのですが、その引用と本文との関係もよく分からない。しかも、例えばプラトンに対するアリストテレスの批判を取り上げながら、それに自分の見解も織り交ぜたりしているので、読んでいる側としては、完全に困惑します。
古典哲学ではデカルト、スピノザ、ライプニッツ、ロック・コンディヤック・ヒューム・ディドロ(この4人は一括りにして僅か10ページで論じます)、カントを扱うわけですが、古代哲学に比べて一人に割く時間が少ないので何がなんだか訳が分からないうちに終わります。そして現代哲学ではヘーゲルに始まり(現代哲学をヘーゲルから始めるのってよくあることなの?)、マルクス、ニーチェ、コント(!)、ベルグソン、バシュラール、ハイデガー、サルトル、でおしまい!
これ以降の思想家は無視なのかな。というか、ここまででなんだかなー、と思う人はいるのではないでしょうか。

宇波さんが訳者あとがきで述べているように、だいぶ変わった哲学史です、これ。戸惑いや違和感のようなものが訳者あとがきの行間から伝わってくる気がするのですが、気のせいでしょうか。
古代哲学と古典哲学をデカルトで区切るのはよくあることだろうけれど、古代ギリシャから一気に1800年以上(?)の時をまたいでしまうのって、さすがに違和感を感じるんですけど。

古代哲学は世界(コスモス)、その法則・組織を対象としたが、それは最も深い考察に必要とされる主体の知性をそこに従属させるためであった。他方、古代哲学の賢者は、自分に依存するものとそうでないものとを識別できた。政治哲学もまた「存在するもの」を正当化し、都市国家を強化した。しかし古典哲学は、古代哲学とは反対に、主体(コペルニクス的転回というときの中心)をきわめて重視したので、宇宙がわれわれの表象するものになったか、そうなる傾向があった。このような形而上学の周辺において個人が重視され、その結果として、自由経済(個人主義)が始めて擁護され、民主主義の原理が開花したのである。(166ページ)

ざっくりいって、世界=宇宙が主役から主体・個人が主役になった。世界だろうが神だろうが、主体の知性がそこに従属していることには変わりがないのだから、中世なんて飛ばしていいよね、ということなのだと思います。ここで気になるのは、著者が哲学を「政治システムや経済体制」の基盤(下部構造的なもの?)として捉えている点。デカルトによって、自由経済(個人主義)は擁護された、民主主義の原理が開花した、と。そうなのかなぁ。(語弊のある言い方なのは百も承知だけれども)哲学ってそんな大仰なものですか。そもそもある哲学が登場する文脈、社会状況に彼は注目せず、単にそれ以前の哲学者との対立ばっか目を向けているのにそんなこと言われても、説得力がないような。

で、現代哲学がヘーゲルから始めるのは、彼が先の引用のように対立する両者を結合させ、調和させたから、ということです。このヘーゲルの評価については、よく知らないので何とも言えません。そして哲学はある意味でヘーゲルとマルクスで「終わった」と指摘します。全体的な体系としての哲学が終焉を迎え、哲学は「小さく」なり、それぞれの分野に哲学者たちは引きこもってしまった、と。したがって、この第3部はかなり混沌としています。このあとに出てくるニーチェについて、彼はこうした文脈に置くことができず分類することを放棄してしまう。そしてその後に取り上げる哲学者についても、彼は苦心しながら、かなり強引にそれぞれの哲学者を位置づけようとする。
この後半部分がすべてを物語っているように思う。哲学の歴史を3つに分断し、その内部での対立のみに注目する彼のやり方は、残念ながらここで破産してしまっている。そもそも、無理があったのではないか。哲学者が注目するのは、自分と同時代(あるいは少し前)の哲学者ばかりではないことは、自明なことだろう。彼が、サルトル以降の哲学者について触れなかった理由は、彼以降の哲学者(実のところほとんどの哲学者がそうであるように)はそうしたダゴニェが設けた分断を乗り越え、自由に思考してきたことがはっきりと露呈してしまうためではないのか?そんな疑義すら抱いてしまう。
原著の副題から考えれば、そうした対立や乗り越えを描くことで、彼は哲学のダイナミクスを描きたかったのだろう。だけれども、この本がそのことに成功しているようには僕には思えなかった。

付け加えだけれども、果たして哲学史とは何か、という問いをダゴニェのこの本は提起している。例えば、NHK出版の「哲学のエッセンス」シリーズを1冊にまとめたものがあったとして、それは哲学史になるのか。哲学史とは結局のところ哲学者と彼らの思想を並べただけのものに過ぎないのか、それとも…?

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